Alessio Dorigo
アレッシオ・ドリゴ
地域とカンティーナの歴史
ピニョーロとピコリット。この2つの原産品種に関してはその栽培の困難さが他のものとは大きくことなり、いずれもこの地からかつては絶滅すら危惧された品種の一つであった。ドリゴはこれらの品種の復活にかけた先駆者としてひとかたならぬ思いをもって復活にあたってきた。ピコリットは結実率の非常に悪い葡萄でおよそ1房に10粒ほどしか結実しない疎粒種の葡萄ゆえあまりにも生産性が悪く長らく忘れ去られてきた葡萄であった。
フリウーリ・ヴェネツィア・ジュ−リア州のゴリツィア県のポヴォレットにワイナリーを持つドリゴは1966年に父ジローラモが葡萄園を購入しその第一歩を踏み出した。彼らは現在2つの葡萄畑で合計40haの広さを所有している。一つはブットーリオ村のロンク・デ・ユーリの畑で、購入以前から葡萄畑として長く使用されてきた地所で、ソーヴィニヨン、シャルドネ、リボッラ・ジャッラ、ピニョーロ、ヴェルドゥッオ、タッツェレンゲ、などを栽培している。もう一つはその少し北東にあるプレマリアッコ村にある、モンスクラパーデという葡萄園でその名の示すとおりドリゴが山を切り開いて造った畑で、ピノ・グリージョ、カベルネ、メルロー、レフォスコ、スキオペッティーノ、そしてピコリットを栽培している。
彼のワイン造りに対する考えの基本は、如何にその土地の持つ風合いをそこに閉じ込め、また品種の持つ個性を忠実に再現するということにある。開設当初からドナート・ラナティ、ロベルト・チプレッソと続いてきた有能な醸造家を起用し積み重ねた実績、つまりこの地での白ワインのポテンシャルの高さの実証と赤ワインでの国際品種の成功という流れを生み出し、先駆的な役割を果たしてきた。そしてジローラモの息子アレッシオが醸造学を修めその任を担うようになりその基本理念に基づき伝統品種の黒葡萄の可能性を世に問う新たな段階へと入った。
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